「癒やす能」その5 ミシェル・フーコー
「物ぐるひ、此の道の第一のおもしろづくの芸能なり」と世阿弥は云った。
「女ものぐるひ、おもしろきものなり、一大事なり」と金春禅鳳は云った。
野上豊一郎「能とは何か」より
かつら物のジャンルに女物狂というのがあり、
1、親子恩愛の情からの狂乱
2、男女恋慕の情からの狂乱
3、主従の情義からの狂乱
4、憑き物からの狂乱
5、境遇その他の不幸な原因からの狂乱
6、三山(うわなり打ちの狂乱)
と言えば、ものぐるひの原因はほぼ尽きる。
世阿弥は芸能のおもしろさとして狂気に題をとっているが、その実やはり狂人にこそ真実の人生がある、とみている。観客もよく承知しており、自らの心のうちをのぞきこみ闇の中に狂気を飼っていることに気づく。
「ノスタルジア」の狂気
話はかわるが、少し前に述べたタルコフスキーの名画「ノスタルジア」の一場面、
もの狂いの老人ドメニコを訪ねる主人公アンドレイのセリフ、
「狂気とは何だろう。
狂人はいやがられ、厄介者にされ、誰も彼らを分かろうとしない。
彼らはひどく孤独だ。
だが確かに、
彼らは真実により近い。」
そして映画史に残る名シーン、雨漏りするドメニコの廃墟に移る。
タルコフスキーが ドメニコへの共感を表明する美しい画面である。
1+1=1
ミシェル・フーコー「狂気の歴史」
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フーコーは1657年のパリ、「一般施療院」の創設に「監禁」の時代が始まった、とみている。
ある人々を「監禁施設に隔離すべき者」として監禁しはじめた。
狂人だけではなく性病患者・放蕩者・浪費家・同性愛者・涜神者・錬金術師・無宗教者を合法的に監禁した。
ヨーロッパ近代とは「理性」と「理性ならざるもの」の分割であり、この構造に根本的な「悲劇」があるとフーコーはいう。
西洋現代はどうなんであろう。
フーコーは「視線」による監視、ごく普通の市民による監視が行われている、と指摘している。
「心身とも健康」な市民の皆さんの「理性」という視線によって「理性ならざるもの」病人たちを告発してはいないか。
「知」による異端諮問、「知」による免罪符を売り歩く法律家、会計士、医師たちこそ疑え、とフーコーは言っているようだ。