『金閣寺』三島由紀夫を読む
調べごとがあって、しばらくぶりに三島由紀夫の「金閣寺」を読みました。
いまごろ、なんで?という感じですが。
戦後文学の最高傑作のひとつでしょう。
まるで金閣寺の模型のような、というよりまるでダイヤモンドのような完璧で精緻な傑作小説です。
一言一句たりとも無駄な表現はありません、読み手が緊張し恐ろしくなります。
ちょっと息苦しいほどです。
物語は青年僧による金閣寺放火事件を下敷きに、青年が美と醜、精神と肉体、思考と行為、父親と母親、表裏に見立てて回想するというもの。
三島由紀夫の語彙の豊富さと表現力には驚かされます、東大法科卒大蔵官僚の正真正銘天才小説家でした。
これは三島のその後も永続する宗教観だと思いますが、
「人の見ている私と、私の考えている私と、どちらが持続しているのでしょうか」
「どちらもすぐ途絶えるのじゃ。むりやり思い込んで持続させても、いつかは又途絶えるのじゃ。汽車が走っているあいだ、乗客は止まっておる。汽車が止ると、乗客はそこから歩きださねばならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。死は最後の休息じゃそうなが、それだとて、いつまで続くか知れたものではない」
という言葉に救われます。
さて、調べごととは若松孝二監督の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の三島についてでした。
映画は「若者たちへの殉死」という冷めたもので、若松さんらしい。
結論は三島と対極にある若松孝二監督の人生が壮絶であった、ということです。