音楽の友その2「シューマンの指」から
「シューマンの過酷な運命は知る人ぞ知る、自殺もやむをえない」と書いたが、
ロベルト・シューマンは1856年7月29日午後4時、死亡した。
自殺といえるかどうか、病死というのが正しいかもしれない、拒食による餓死を自ら選択できるだろうか。
では死にいたるシューマンの過酷な運命とは?
「尊敬する先生、私の手をとって、そして導いてください。
私は従います、あなたの望むほうへ。」シューマンの手紙
1830年ライプチヒ、シューマンはフリードリヒ・ヴィークに師事した。
ヴィークの娘クララはまだ10歳、しかしすでに天才少女として活躍していた。
運命の皮肉はこのヴィーク親子に出会ったことに始まる。
最終的には二人の愛情がまさったが、骨肉の争いはシューマンも父親も心身ともにボロボロになった。
では、美貌の麗人ピアニスト、クララとロベルトは世上いわれるような仲睦まじい理想のカップルであったのだろうか?
わたしは疑問に思う。
世間は才色兼備のピアニストクララに喝采をおくるが、一方指を痛めたピアニスト、亭主の作曲家ロベルトに陽は差さない 。
ロベルトはだんだん大言壮語となりオペラを作曲すると言い出し結局失敗する。
出来すぎた女房の不幸であった、と思う。
傑作「ピアノ協奏曲イ短調」は1831年から1835年の作品である、まだ結婚はしていなかった。
おわりに友人S君のその後を書いてこの項を閉じる。
銀行員となったS君は趣味でその後も音楽評を書き続けた。とくにベートーヴェンの交響曲3番「英雄」について指揮者、オーケストラ別に30枚以上のLPを聞き比べ、評論した。
残念なことにS君は30代で病死した。
亡くなる半年前、「英雄」の最良の演奏はこれだ、とクナッパーツブッシュ指揮ミュンヘンフィルのレコードをプレゼントしてくれた。「もっともデモーニッシュ」
結局このレコードがわたしへの遺品となった。
じつにゆるやかで荘重な葬送曲である、あらためてジャケットのライナーノートを読むと宇野功芳とあった。