(3)笑うショーペンハウアー
山中問答 李白
余に問う 何の意ありてか碧山に棲むと
笑って答えず心自ら閑なり
桃花流水ヨウ然として去る
別に天地の 人間(じんかん)に非ざる有り (訳 宇野直人)
腹を抱えて笑える哲学書というのものにはそうそう出会えない。
しかしゲラゲラ笑った、痛快、痛快。
あのショーペンハウアー先生の風貌と思い込みの激しい頑固なおっさんの言動はまさにシンクロするのです。
今日の大学でもよくあることですが教授同士のいさかい。インテリだけに始末が悪い。
ヘーゲル大教授と犬猿の仲、そこでまさに決闘、あえて同じ大学、あえて同じ時間、あえて隣の教室であえて同じ哲学の講義を挑戦的に開始するが、ヘーゲルの講座は大盛況、ショーペンハウアーの講座には数人の学生しか参加しない。ショーペンハウアー先生の完敗である。
そんな屈辱に耐え切れず講座を数回で打ち切ってしまう。はた迷惑、身勝手な所業ではあります。
ところが大学もさるのも、ショーペンハウアー先生の講座を閉講しない。
その後10年間も開講のままほったらがし、数人の学生は待ちぼうけのまま。先生の恥さらしをこれでもかと10年続けてしまう。おそらくヘーゲル大教授の陰謀ではないか。
ただわたしはショーペンハウアー先生の言い分にも理があると思う。
ショーペンハウアー先生はカント哲学の純粋後継は自分だと自負しており、ヘーゲルはカント哲学を拡大解釈し都合いいように利用していると批判、というより罵詈雑言罵り倒す、我慢ができないのです。
何時の時代でも学生たちには実利的効用で講義を選択します。
たしかにヘーゲルは胡散臭いのです、その哲学も。
著者は、ショーペンハウアー先生の常軌を逸した自己顕示の性格を母親との確執、まあ遺伝だと言っています。
当時、母親も名だたる文芸家でしたが、同じ家族に天才は二人は出ない、出てはならないと息子ショーペンハウアー先生の処女作を酷評し、絶縁したそうです。そんなひどい母親の話聞いたこともない、ショーペンハウアー先生の性格の歪みがわかるような気がします。
ショーペンハウアー先生のカント哲学の純粋後継もなるほどと思いますし、先生の音楽論、芸術論はすばらしい。
しかし先生、晩年には東洋哲学に傾倒され悟りの境地に達せられると、凡人のわたしとしては理解を超えてしまうのです。
おそらく先生は山中問答のようなご心境で、お幸せな生涯であったと推察します。
その後、先生を上回る身勝手もの弟子ニーチェが登場します。