「癒す能」その2 隅田川
古代アテネでは、ギリシャ悲劇の上演が医療施設で実施され治療に効果が上がっていたということは史実として記録にあります。
一方、能の発祥は足利義満の時代、娯楽として猿楽から様式化したことに始まります。
その時代や経緯は違うのですが、世阿弥の目指した娯楽がカタルシスによる精神の浄化作用による悦楽だとすれば、
ギリシャ悲劇同様に、能に人のこころを深いところで癒す力があるというわたしの「癒す能」という話もそうそう的外れではないでしょう。
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さて、具体的な演能の例によれば、
もっともポピュラーな能、上演回数の多い能といえば「隅田川」でしょう。
話は「行方不明の息子を探しにきた母親が、隅田川の渡しで息子の死を知り嘆き、その塚の前で経を読むと幻のごとく息子が現われ消える。」というもの。
子を探す旅の母親の話であるのでわかりやすいですし、嘆き悲しんで狂っている母親に共感できます。
そしてクライマックスでは、一瞬、子が現われ(声だけが聞こえる、という演出もある)すぐ消える。
わが子と見えたのは塚の上の草だったのです。
「東雲の空もほのぼのと明け行けば跡絶えて、
わが子と見えし塚の上の、草茫々としてただ、
しるしばかりの浅茅が原と、なるこそあわれなりけれ、
なるこそあわれなりけれ。」と終わる。
子を亡くした母のひとはもちろん、家族を亡くし懐かしく偲んでいる誰もが、
狂女に負託し、亡き人に会う、という一瞬の刹那それは在りうると思うのです。
その瞬間、観客は自身の幻想なのかと、自然に涙があふれるのです。
この稿続く