心敬 利休の茶(その2)
銀閣寺東求堂「同仁斎の間
「だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。
応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。
それ以前のことは外国の歴史とおなじくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、
これを本当に知っていれば、それで日本の歴史は十分だと言っていいのであります。」
江戸期には荻生徂徠や中江藤樹、本居宣長など本当の学者を多く輩出したが、今日では学問に精励する学者というのはそう多くはいない。
学者の世界も、いつのまにか政治家同様の劣化が進みつつある、と観る。
そこで内藤湖南や湖南に私淑した白川静の著作を読んで書斎に清涼な風を吹かしめる。
さて有名な「応仁の乱について」の講演は、門外漢であるとことわっての発言であるが、
こと「真の身体骨肉に直接触れた歴史」つまり文化史については文芸をのぞけば湖南の説はまったくその通りといっていい。
日本家屋、庭、生け花、水墨画、俳句の前身連歌、能、そして茶の湯の発祥は応仁の乱のさなかにおいてである。京中の神社仏閣、家屋が灰燼に帰したとき、旧来の文化風俗も消滅、まったく新しい文化が誕生した。その文化がまさに今日まで「身体骨肉に直接触れて」残っているのである。湖南の卓見といっていい。
千利休の侘び茶の発祥を「山上宗二記」では「将軍足利義政に能阿弥が村田珠光を紹介し茶を献じたのがはじまり」とある。
つまり銀閣寺東求堂「同仁斎の間」がわが国はじめての茶室であったことは間違いない。
今日、俳句の前身である連歌に触れる機会はないが、応仁の乱のころ、連歌師は同仁斎の間「茶の湯」の席の常連であった。
宗祇の師「心敬」は
「兼好法師が言ふ、月花をば目にてのみみるものかは。
雨の夜思ひ明かし、散り萎れ木陰に来て、過ぎにし方を思ふこそ、と書きはべる、
まことに艶深く覚えはべり」
と「徒然草」への共感をあらわし、
「連歌は枯れ衰えて、冷えびえしているがよし」という、
実に、利休の侘び茶はここに始まったのだと思う。