「哲学者の密室」笠井潔 痛烈なハイデガー批判
笠井潔さんの、10年という時間、2000ページ、まさに渾身の傑作本格ミステリー小説であるが、
残念ながら商業的には成功していない。(もちろん作家にはそんな目論見はない)
なぜか。
まず第一に、
ドイツ哲学の巨人ハイデッガーが小説ではマルティン・ハルバッハと仮名で登場する。
今回、名探偵矢吹駆が迫るのはマルティン・ハルバッハの大著「実存と時間」未完の謎であるが、
いうまでもなくそれはハイデッガー「存在と時間」未完の謎である。
と、いわれてもそもそも「存在と時間」を読んでいるミステリーファンは多くはないだろうし、
ましてハイデッガー「存在と時間」未完の謎に関心のある読者はさらに少ない。
ただ、それが第二次大戦中ナチス党の協力者ではなかったかと、指揮者のフルトヴェングラーと哲学者ハイデッガーが疑われた事件と関わりがある。結局のところ戦後西側世界での有用性で無罪となったが、フルトヴェングラーは自殺し、ハイデッガーは主著「存在と時間」がまったく書けなくなった。
笠井潔さんは本書で痛烈なハイデッガー批判をしているが、それはほぼ史実に正しい。(ただ哲学者仲間では今日もタブーである)
さらに、
一編のミステリーで2000ページという物量となればふつう読者はたじろぐだろうし、読み始めるには相当の深呼吸がいる。
まあ最長不倒記録にのぞんだと思えば、その完走の達成感は尋常ではないが。
肝心のミステリーは2件の密室殺人事件である。
密室殺人トリックの解明がダブル挑戦である。
親切に密室の精緻な見取り図がそれぞれ示されているが、その親切があだとなって読者はさらに混乱する。
最後にダメ押し。
名探偵矢吹駆くんの推理は「現象学的直観」によるのであるが、
ちなみに本屋でフッサールの著作を一冊でも手に取ってみるといい、まずチンプンカンプンであることを請け合う。
現象学のテキストでよいものがない。
しかし皮肉にも、この矢吹駆くんシリーズが最良の入門テキストであるということになる。
つまり、息も絶え絶えに読み切れば恐るべき名著であることがわかる、という次第。