minerva2050 午後の愉しみ

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「磁力と重力の発見」山本義隆

磁力と重力の発見

 

 

 

 最近の理科系を目指す大学生、高校生、あるいは予備校生にそのこころざしの動機を尋ねると、

 

山本義隆さんの「磁力と重力の発見」を読んで物理学や数学の面白さを知ったから、と答える者が何人かいた。

 

驚くと同時に深い感銘を受けた。

 

「へえ~まるで現代の吉田松陰先生や、著者冥利に尽きるやろ」と

 

そのうれしさに10年前の本を持ち出してあらためて再読した。

 

この「磁力と重力の発見」三巻本は別巻の「熱学思想の史的展開 熱とエントロピー 」合わせておそらく歴史に残る名著となろう。

 

わたくしの個人的読書経験では、

 

世界は違うが、プルーストの「失われた時を求めて」、ドナルド・キーンの「日本文学史」、塩野七生の「ローマ人の物語」読後の戦慄に近い興奮があった。

 

若い人に記憶してほしいことは、本の内容もさることながら

 

わたくしは現代の吉田松陰と例えたが、実際山本義隆氏は28歳で松陰同様社会的に抹殺され、なおかつ62歳で復活しこころざしを遂げたことである。

 

歌人道浦母都子さんは2003年11月の朝日新聞書評で『磁力と重力の発見』毎日出版文化賞受賞の印象をこうあらわした。

 

 

 その本をまだ読んではいない。

 それなのに、光沢のある白いカバーに包まれた三冊の本を、机の上に置いただけで、心安らぐ気がした。ブラインドを透かして机上に射し込む秋の光が、ゆらゆらと揺れ、白い三冊の本が海に浮かぶヨットの帆のようにさえ感じられた。

 本の名は、山本義隆著『磁力と重力の発見』(みすず書房)。「古代・中世」「ルネサンス」「近代の始まり」の計三巻である。

 書名を目にしたのは新聞の広告欄だった。山本義隆著とあったので、ふっと気になり、切り抜きをしておいた。

 しばらくして、書評を読み、あらためて確信をした。そして、何とかして、あの本を手に入れなくては、と何軒かの書店を訪ねた。

 探しあぐねて、出版社に直接申し込み、宅配便で届いたのが、手元の三冊である。

 山本義隆なる、なつかしい著者名は、私の記憶を三十五年前へとさかのばらせてくれた。

 

                   ヨット

 

 

 

そして著者本人は、序文でこう書いている。

 

もとより著者は、物理学の教育のみを受けた一介の物理の教師にすぎず、それがこのようなことを言えば大風呂敷のそしりは免れないし、そもそも本書の執筆それ自体が、僭越をとおり越してほとんど無免許運転にも近い無謀であることは重々承知している。

 

さて、本文である。

 

「磁石や琥珀がものを引きつける」という不思議な現象を人々はどう説明したのか、

 

ただただ磁力と重力について紀元前ギリシャ時代から十七世紀まで歴史はどう語ってきたのか、

 

丹念に執拗に探っていく、

 

それはまるで広い砂浜で「磁石」という砂粒を探すという気の遠くなる作業であったろう。

 

すると「磁石」という砂粒ばかりか、砂浜の形や風紋が鮮やかに見えてきた、ということなのだろうか。

 

結局のところまったく新しい西洋通史、わけても「哲学史」「宗教史」を語ることになってしまったのである。

 

例えば、「暗黒の中世史」と呼ばれた時代さえ異端と呼ばれた魔術師や技術者たち、歴史に登場しないいわゆるアウトサイダーの証言を集めれば、「光ある中世史」によみがるという次第である。

 

一介の物理の教師がフリードリヒ2世の「平和思想」を、トマスアクィナスの「スコラ哲学」の核心を、実に正確に簡潔に語るのである。

 

クライマックスは第3巻、ケプラーニュートンの発見の意外な秘密をを語ることになる。

 

恐るべき博識というべきである。

 

 

そもそも山本先生はどうしてこんな研究にのめりこむようになったのか?

 

ケプラーを読んでいると「重力」を論じるにあたってしきりに「磁力」「磁力」とくり返されているのにゆきあたり、非常に奇異な気がした。

 

通説のようにニュートンガリレオデカルトとひとまとめに機械論哲学の提唱者としてくくるのは無理があるのではないか、

 

という疑問に自問自答しようとしたのだと言う。

 

その間なんと20年、ラテン語を学び、国会図書館に通い、神田で古書を買い漁り、独学した。

 

そして、これまで20年間にわたって抱き続けてきた疑問にたいして私なりの回答を与えることができたと思う、と結んでいる。

 

小林秀雄が「本居宣長」でいう学者とはこういう人を呼ぶのであろう、と感嘆した。