書評「冷血」上・下 高村薫
合田が帰ってきた。
高村節のリズム感が戻ってくるのは事件現場に合田が到着してからである。
現場検証、捜査会議の詳細を極めるリアリティ表現はさすがの高村さん。
ただ事件はありふれた強盗殺人事件、犯人逮捕もあっけない。
あえてシンプルな舞台設定にして、
「冷血」な犯人の深層心理を表現しようとするのだが成功していない。
例えば、
T「その汚い安っぽいアメリカに、赤いドレスを着たナスターシャ・キンスキーの下品さがぴったりで、泣けたのです。下品のなかにも、髪の毛一本の差で美になるものがあることを発見したのが、私の『パリ、テキサス』でした。」
本書の中で、もっとも印象深い手紙文であるが、さて今日『パリ、テキサス』のナスターシャ・キンスキー髪の毛一本を記憶にとどめている読者がどれほどいるのだろうかと思ってしまう。
I「いつの間にかひとりで畑に戻っていて、キャベツを金属バットで叩き潰して回っている。ああ、いいえ、だからどうだということではないけども、やっぱり怖いこともありますよ、身内でも・・・」
中学生のいたずらなら、やっぱりだからどうだということではないだろうし、
キャベツが殺人の動機になるかという問いならやはり「ならない」。
よくよく高村ワールドを振り返ってみると、
エンターテイメント小説「レディジョーカー」後の「晴子情歌」から前作「太陽を曳く馬」まで純文学は書けていない。
ごく普通の事務員がある日当然天啓を受けてワープロをたたき始め、
「マークスの山」「レディジョーカー」と驚異的な劇的世界を生み出したが、
人間の原罪を書くほどの天啓は受けていない。
つまりチェーホフはチェーホフなのであってドストエフスキーではないということだろう。
冷血(上) (2012/11/29) 高村 薫 商品詳細を見る |