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厳島千畳閣と安国寺恵瓊

千畳敷

何度も宮島を訪れその時々には千畳閣にも上っているが、たしかにいわれるように未完の大経堂であり、不思議な建物である。

入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ千畳敷と呼ばれるほどの経堂なのに、

なぜか壁面はなく、本来の入り口もなく、あるべきところに本尊もない。

現在では夏は涼しく眺望もいいところから絵馬の展示場と休憩所になっている。

それはそれでいいのだが、天正15年(1587)の建立以来今日まで、四百年もの間未完成のままなのである。

考えてみれば、ときの権力者たちに翻弄された痛ましい建造物ともいえる。

まずなによりも厳島神社側からすれば不快な建物である。豊臣秀吉が、千部経の転読供養をするため、安国寺恵瓊[あんこくじえけい]に命じて建立したが、神様のすぐ横で毎月千人の僧による読経といわれば断りたくもなる。

建立した安国寺恵瓊も評判の良くない坊さんであった。元々は毛利氏の参謀から秀吉側近に転じた策士、

関ヶ原の合戦では石田三成につき六条河原で斬首された。

これでは工事が止まるのもやむをえない、神社側からはそっと黙殺である。

そもそも本当に秀吉が建立を命じたのか、恵瓊が秀吉の名を借りて作り始めたのか、残っているのは恵瓊の指示書だけである。

徳川時代になると源氏筋を名乗る徳川家康にとっては平家豊臣筋の厳島はたんに観光、歓楽の島であり、寛永2年(1625)には広島城下材木町にあった遊郭を、厳島に移した。千畳閣も物見遊山の休憩場所となった。

ところが、明治維新になると神仏分離令により本尊の釈迦如来は大願寺に移されたが、反徳川の政府は千畳閣に秀吉と加藤清正を祀り、豊国神社として、改修も行われた。

紅葉狩りの季節、宮島の何気ない日常風景のなかに、権力者に翻弄された神社仏閣の歴史が見てとれる。