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空海と最澄


空海の夢空海の夢
(2005/12/30)
松岡 正剛

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平安時代空海最澄という二人の秀才がほぼ同じ時期に登場したのは歴史の不思議である。

日本における仏教の哲学的思惟はこの二人に極まる。

延暦二十三年(804)同じ遣唐使船団に,最澄は「還学生」空海は「留学生」という仏教修学の徒として中国へ渡っている。

二人の青年のこころざしもよく似ている。

最澄は二十歳のとき「願文」を書いている。「無所得を以って方便となし、無上第一義のために金剛不壊不退の心願を発す」

いっぽう空海は二十四歳で有名な「三教指帰」を著している。

帰国後の二人の活躍は、最澄が「天台宗」を開き、空海が「真言宗」を開いたのは周知のとおりである。

あえて二人を分ければ、最澄は稀代の秀才、空海は空前絶後の天才ということになろう。

最澄は秀才の名にたがわず比叡山仏教の総本山とするべく「円蜜一致」のシステム化に取り組んだのであるが、繊細さゆえ晩年は徳一との教義論争にノイローゼ気味となっている。現代でいえば株主総会で総会屋にすごまれてあわてるまじめすぎる社長の姿を連想するといい。

いっぽう空海はいわば新進気鋭の天才実業家といういでたちである。

平安時代のスティーブジョブスというところ、プレゼンの天才であった。ときのインテリ嵯峨天皇をとりこにしてしまう。

ふたりは立場の違いから一見けんか別れしたようにみえるが、同じ志を持つ秀才と天才同士、こころの奥ではおそらく通じ合っていたはずである。

さて、

宗教と哲学、これほど似て非なるものはないだろう。

信仰とはいわしの頭であれなんであれまずは「信じる」ことである。いっぽう哲学とはとにかく「疑う」ことである。

あなたの人生にとってどちらが幸福かといえば宗教の信仰心に軍配が上がる。信仰による安寧は長く、死をおそれない。

哲学徒は猜疑心のかたまりである。多くの哲学者はこの世を憂いまずその死を受け入れられない、厭世的でペシミストである。

逆に宗教と哲学がいかに近しいかはその歴史を覗けばよくわかる。

一般に哲学の発生を紀元前5世紀ころのギリシャに求めるが、ちなみに釈迦は紀元前463年の生まれである、以降インドでは仏教研究が熱心に行われ5世紀ごろに沸点となる。

16世紀、デカルトが「われ思うゆえにわれあり」と近代哲学の扉を開くが、すでにインドでは5世紀には「唯識」についての論議がさかんにおこなわれている、カント顔負けである。

現代人が宗教に眉をひそめるのは「宗教」が語る来世思想であろう。

だれも見たことのない死後世界を天国といい極楽といい、見て来たような楽園説法に笑ってしまうからだ。

わたしは、あの世があればキリスト教イスラム教、仏教ユダヤ教、新興宗教まで入り乱れて現世よりはるかに喧騒な社会となっているであろうと思ってしまう。

「あの世のことはわからない」と言った正直者の宗教家は、知る限り「道元」ただひとりである

もし現代のこの科学信仰絶対のパラダイム転換が起こりうるとすれば、多くの物理学者が予言している物理学における五次元世界の発見であろう。

ニーチェ永劫回帰説もその予言なのだと言われれば納得する。