ニーチェ先生 ショーペンハウアー(その3)
幸福について―人生論 (新潮文庫) (1958/10) ショーペンハウアー 商品詳細を見る |
ペシミスト(厭世主義者)といわれたショーペンハウアー先生がまさか「幸福について」語られると、少し鼻白む気もしないではないのですが、
気取った哲学的表現はともかくとして、要は、いや、ひらたくいいますと、
「幸福に生きる」とは「あまり不幸でなく」我慢できる程度に生きる、ということで、
人生は楽しむものではなくて困難を克服し始末をつけるものである、といっておられるのであります。
もっとひらたくいいますと、人生は「おしん」のようなものだ、といっておられるのです。
「幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である」 ヴォルテール
やはりペシミストで在られたのか?
笑うショーペンハウアーも(その3)となります。
だいたい、そもそも、わたしはドイツ観念哲学の学究徒として、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッガーの系譜を学ぼうとしていたのですが、ショーペンハウアー先生に引っ掛かってよからぬ道に迷い込んでしまっている態ではあります。
さすがに先生もよわい六十を過ぎられますと「筆のすさびと落穂ひろい」と題すこの一文にはヘーゲル批判はないのであります。
それは仏陀の教えに帰依されたためか、人格の陶冶が進まれたかはわかりませんが、
もっとも確かなのは宿敵ヘーゲル教授が1831年に亡くなったことによるのではないかと思います。
一方、ショーペンハウアー先生は1860年、71歳まで生きておいでです、当時としては長命です。
「ヘーゲルの奴め、死におったか、ふふふっ」という心境だったでしょう。
ヘーゲル教授亡き後30年も人生を謳歌されています。
この「幸福論」には、さも長生きが勝ちと言わんばかんのところがありますが、
日本語訳のすばらしさも含め出色の人生論です、近代のセネカといってよろしいでしょう。
(セネカほどひっ迫した人生ではありませんが)
つきなみですが幸福は金では買えないともいっておられます。
ただ ショーペンハウアー先生は、親の遺産で、一生お金に困ったことはなく、ほぼ漱石「それから」の高等遊民の暮らしであったようです。
カントがケーニヒスベルクという地方都市の大学教授の薄給に甘んじ生涯をおくり、ヘーゲルが家庭教師や新聞社勤務から大学教授へと転進した人生と比較すると、
ショーペンハウアー先生の処世は甘いといえば甘いのです。
そこがこの先生の弱さであり、また魅力でもあるのです。
「わたしはアリストテレスが二コマコスの倫理学で何かの折に表明した『賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める』という命題が、およそ処世哲学の最高原則だと考える。
この命題の真理性は、すべて享楽とか幸福とかいうものが消極的・否定的な性質のものであるのに反して、苦痛が積極的・肯定的な性質のものだという点に基づく真理性である。
この基礎となる命題の詳しい説明と基礎付けは私の主著『意志としての世界と表象としての世界』第一篇五十八節にある。」
ショーペンハウアー「幸福について」から