minerva2050 review

ブック、映画、音楽のレビューです。お役に立てば・・・

『バードマン』アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督

バードマン

 

ブロードウェーの不思議のひとつに、

公演初日のニューヨークタイムスの批評次第で、ロングランあるいは一週間で打ち切りが決まる、という理不尽なルールがある。

何か月、何億の経費をかけて準備をしていようとダメはダメ。

 

この理不尽なルールにもの申したのがこの映画の会話、痛快である。

 

落ち目のハリウッド俳優リーガンはブロードウェーの舞台に再起をかけるが、プレビュー公演は失敗。バーでニューヨークタイムスの批評家タビサ・ディッキンソンに出会う。

 

リーガン「批評しているのか。

      面白かった? 駄作か? ちゃんと観たんだろうな。

      くそ批評を読ませろ。」とタビサのメモ書きを読む。

 

リーガン「未熟?ありきたりだ。無味乾燥?これもそう。

      中身がないだと?もっと具体的に説明しろよ。

 

      あんたはレッテルを貼ってるだけ、かなり手抜きだな。

      あんたは怠けてる、怠けものだ。」と一輪挿しの花を手に取り

 

リーガン「これが何だかわかっているか?わからないよな。

     レッテルを貼らないとちゃんと見えない。

     頭に浮かぶ言葉を知識だと思ってる。」

 

 タビサ「もうおしまい」

 

リーガン「君の文章には技術も構成も意図もない。

      下らない意見を述べさらに下らない比較を追加、

      君は批評を書くだけで、何ひとつその代償を払わない。

      なんの危険もない、リスクはゼロ。

 

      俺は役者だ、この芝居にすべてを懸けた。

 

      よく聞けよ、

      このいまわしい悪意に満ちあふれたクソみたいに下手な批評を突っ込むがいい

       そのシワだらけのケツの穴に」

 

  タビサ「あなたは役者じゃあない、ただの有名人よ。

       芝居は打ち切り」       

                     ( 翻訳 稲田嵯裕理)

 

しかし・・・  「無知がもたらす予期せぬ奇跡」が起きる

 

 

『Mr. Robot』(ミスター・ロボット)Amazonビデオの傑作海外ドラマ

ミスターロボット

うーん、やっぱりドラマ化されたか、という第一印象ですが、いかにもアマゾン独占配信らしい知的ドラマです。

昼はコンピュータセキュリティーの専門家、夜は天才ハッカーとして悪徳企業をやっつけてしまうという現代の必殺仕事人のドラマ、おもしろい、必見です。

この手のシュチエーション映画は「ソードフィッシュ」あたりから、「ドラゴンタトゥの女」で大ブレイクしたのではないでしょうか。

「ドラゴンタトゥの女」のリスベットはアスペルガー症候群の女性、「ミスター・ロボット」のエリオット君はコミュニケーション障害のオタク青年、という設定。(アメリカでは精神疾患表現モラルがきびしいのであいまいです)

エリオット君の得意分野は暗号解読、ハッカー集団「f・ソサエティ」がエリオット君の能力を確かめながら入会審査をするのがおもしろい。

実在のハッカー集団「アノミマス」でも会員の多くがサイバーセキュリティ会社で働きながら腕を見込まれて会員になっていると聞きます。

ネットにピエロの仮面をつけて「f・ソサエティ」が登場するのも「アノミマス」のパクリではと、笑ってしまいますが、10話では映画「Vフォー・ヴェンデッタ」が大いに関係してきます。予習の意味で「Vフォー・ヴェンデッタ」もどうぞ。

せっかくの『Mr. Robot』(ミスター・ロボット)も7話あたりからリアリティを失って、曖昧なファンタジードラマに転じていきます。

むしろファンタジーにせざるを得ない「見えざる力」にぞっとする秀作海外ドラマでした。

Vフォー・ヴェンデッタ(映画)マトリックスより笑える

              Vフォー・ヴェンデッタ

ハッキンググループのアノニマスの仮面として有名になったガイフォークスマスク。

そもそも事の起こりはこの映画「Vフォー・ヴェンデッタ」から。

何かと世間を騒がすウォシャウスキー姉弟のおバカないたずらなのか、まっとうな映画なのか、

ただ小道具のはずのVフォー・ヴェンデッタマスクが一人歩き。

アノニマスバイブル的映画として不朽の名作としてたてまつられ、いまだにファンが絶えない。

たしかに良くも悪くも、アノニマスの活動を知ろうとすれば復讐、革命、ヴェンデッタ、と映画はわかりやすい。

ウォシャウスキー兄弟には配給のワーナー・ブラザーズのおえら方もお手上げ状態。

本当はマンガオタクなのか、いや映画製作者として天才なのか、

マトリックスシリーズはともかく「Vフォー・ヴェンデッタ」が社会的影響を強めてまさか歴史的名作になろうとは、読めなかった。

公開の遅れている「ジュピター」も成功するのか、コケるのか、

どうもSMの女王が登場してわけのわからない世界観のようだが、

大丈夫?ウォシャウスキーおねえさま。

*「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が製作&脚本を手掛けた近未来アクション。独裁国家と化した英国で、仮面のヒーロー“V”が自由を求めて革命を起こしていく。(Movie Walkerから )

「十二国記」新作は直木賞を受賞する

jyuunikokuki.jpg

いわば東洋の「指輪物語」、きっと永く読み継がれる名作なので、

新作に直木賞くらいあげておかないと、将来、直木賞選考委員の人たちはきっと恥ずかしい目に合うでしょう。

いまは奇書、あすは名著

食わず嫌いという言葉があります。読書ではさしずめ嫌いなジャンルということでしょう。

若い女性向けのホワイトハート文庫、ましてファンタジーとなればまず本屋で手に取ることはありません。

しかしそれでも是非にと勧める人があり、勧められるままに読み始めた「十二国記」でしたが。

これが美味い、じつに美味い、あらためて食わず嫌いは良くないことだと思い知りました。

本筋の四巻をいっきに読み終わり、ため息ひとつついて、不思議な勧興を覚えました。

レミゼラブルのコゼットの物語のようでもあるし、ブロンテの嵐が丘のようでもある、

いやメルビルの白鯨の味わいでもあり、いや果てはセルバンテスドン・キホーテの滋味かと。

ともあれ古今の名著が思い浮かぶということは「十二国記」は意外にも大変な傑作なのではないか、と。

「いまは奇書、あすは名著」の例にならうのではないでしょうか。

文学上の特徴

物語は省略しますが、いわゆる貴種流離譚の神話形式をとっています。

神話世界のリアリティを支えているのが中国史史記」五帝本紀、夏本紀、殷本紀、周本紀あるいは「書経」。

著者小野不由美さんの書誌学の教養は相当なもので、ある執念さえ感じさせます。

東洋史碩学内藤湖南」漢字研究の「白川静」の系譜、京都学派につながる人ではないでしょうか。

小説「十二国記」はさしずめ「和漢朗詠集」現代版といえるかもしれません。

大きな特徴は漢字の多用、漢文読み下しの文章にありますが、

その美しさと軽快なリズムから、あらためて日本語見直しの機会になるかもしれません。

著者は「十二国記」出版のいきさつを「はじめ難しすぎて若い女性向きではない」と断られたと語っていますが、

いまどき本気で漢詩、漢文を勉強するのは大学受験の高校生か大学生くらいでしょう。

出版社が販売見通 を完全に誤っていたということになります。

目ざとい漢学者が「十二国記で学ぶ漢文」なる本を出版するほどですから。

それはおそるべき出来事です。

ユング心理学の影響

著者は「あえてモデルといえば若い女性の読者」と語っています。

そのやさしさは、

陽子、祥夐、鈴を通じて若い読者との対話をもっとも大切にしているとのテーマの核心でしょう。

アニメ版では仮面をつけた猿が象徴的に登場します。

もちろん本文でも主人公の心理描写としての猿は出てきます。

アニメ版では少し直接的過ぎますが、

仮面「ペルソナ」と魂「ソウル」の葛藤表現は、ユング心理学を援用しているとの表現でしょう。

そもそも「十二国記」の神話的世界はユングのゆめ世界そのものなのかもしれません。

経験からうまれるリアリズム

若い女性向けのホワイトハート文庫、ましてファンタジー、確かに夢のようなふわふわした話です。

しかし差し込まれている具体的な出来事は深刻な今日的な事件の連続です。

それらは、おそらく著者の具体的な経験に基づくものでしょう。

祥夐、鈴の貧困の苦しさは、著者の困窮生活の実際の経験でしょうし、

陽子の哲学的「意志」の発見は、著者自身の精神的葛藤からの発見でしょう。

著者小野不由美さんは特異な人生経験の自信から、現代に対決しているようにみえます。

経験からうまれるリアリズムの強さが「十二国記」を名作足らしめていると言えるでしょう。

ただそれは筆者のあて推量であって、小野不由美さんは無心に対話を重ねている、というのが本当のところでしょう。

名作の多くが著者も説明できないイリュージョンであったといわれてます。

きっとそういう本たちの仲間でしょう。

いまいちど、いまは奇書、あすは名著。

ピリオダイゼーションという戦略(チェルシー監督モウリーニョ)2015年プレミアリーグ優勝

2015年プレミアリーグ優勝はチェルシー、さっそく2016年も連覇すると宣言。

監督はジョゼ・モウリーニョ

thモウリーニョ

「私は特別な存在(Special One)だ」というセリフは有名だが、たしかにプレミアリーグセリエAリーガ・エスパニョーラとヨーロッパ三大大会で優勝に導いている監督は彼だけである。

Special One、みずからそう豪語してもだれも文句はいえない、有言実行言葉で自分を鼓舞している。

では彼の哲学、戦術的ピリオダイゼーション理論(PTP理論)とはどんなものか、あまり多くが語られていないが、

ビジネスにも応用のきく最新の勝つためのセオリーについて語ってみよう。

1.モルフォサイクル これはよく知られているトレーニングサイクル。

試合の翌日は必ずオフにする、などである。

ギリョルメ・オリベイラ(訳注:ポルト大学のヴィトール・フラーデ教授とともに戦術的ピリオダイゼーション理論の研究・提唱を行った。現在もFCポルト・アカデミーに職を置いている。)によると、直前の試合を監督が分析し、そこから1週間の課題や目標を設定し到達する上でウィークリーサイクル(モルフォサイクル)と呼ばれる各曜日の役割や違いの認識・形式化こそが彼の練習プラン作りのための基礎となる、という。

「このウィークリーサイクルでは前の試合の反省と次の試合の情報を包括し、その次戦準備を目的としている。」

2.PTP理論の核は複雑性"complicated"

複雑系の振る舞いはしばしば、創発と自己組織化で説明される。カオス理論は初期条件を変化させることで複雑な振る舞いを生じるシステムの敏感さをゲームに応用している。

トレーニングもすべて実戦形式。

モウリーニョの有名な言葉「ピアニストがピアノの練習にピアノのまわりを走るか」

3.創発(emergence)、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

ゲームでは選手みずから演技し表現する。

トレーニングにおいても集団のなかでイメージを描く。

ピリオダイゼーション理論の発案はポルトガルのビトール・フラデ氏、全く実戦経験のないモウリーニョが応用、ポルトガルリーグFCポルトで優勝し、理論の有効性を示してイギリスへ渡った。

背景にはスペインを追われたユダヤ系知識人の集団がポルトガルに逃れリスボン大学を中心に活躍するアントニオ・ダマシオらのグループがあり、ビトール・フラデも一員であろう。

アントニオ・ダマシオの言葉

The Feeling of What Happens: Body and Emotion in the Making of Consciousnes

モウリーニョが語ったとしてもおかしくないセリフである。

映画「インターステラ」傑作SF

インターステラ

はじめの15分はほとんどオカルト映画かと見まがう。

娘の部屋の本棚から勝手に本が落ちる、砂が積もる。

農場では野菜が枯れる、砂嵐がやって来る。

どうなるのこの映画は、オカルトはごめんだと思いつつ。

親子が不思議な基地を訪ねたところから本格的なSF映画がスタートする。

土星の近くにワームホールが出現した」という。

ワームホール?20年近くのむかし 『ホーキング、宇宙を語る』に 出てきた話だ。

たしか宇宙の端には風船のような子宇宙が存在するという信じられないような話だったが、

インフレーション理論というらしい。

映画では、地球に暮らせなくなる人類の次の住み家をワームホール(子宇宙)で探そうと探査機を打ち上げる。

宇宙に飛び出したあたりからラストまで一気におもしろくなるのだが、あとはどうぞ映画をご覧下さい。

この映画楽しみのヒント

「宇宙でも時間はすぎる。でも地球より遅い」

アインシュタインの「一般相対性理論」では

「加速度を行うものは、とまっているものや等速直線運動を行うものよりも、時間の進み方が遅くなる」という。

映画では、宇宙船の加速度をあげるとどんどん時間が遅くなるところの表現がうまい。

「時間は相対的なものよ。

伸びたり縮んだりはするけれど過去には戻れない。{熱力学の法則・・・タイムトラベルはできない)

他に次元を超えられるのは重力だけよ。」

理論物理学者のリサ・ランドールさんらが提唱する余剰次元モデルをなんとか映画で表現しようとしている。

この美人物理学者に映画関係者が参ってしまったのだろう。

リサ・ランドール

「異次元からも作用する重力」が大きな鍵となり、オカルトの謎が解ける。

このSFXは素晴らしい、ぜひ大画面のテレビで覧下さい。

ヴァレリー・アファナシェフ -奇跡のピアニスト(その4)

春の日、早朝5時に目覚めた。

まわりの人に迷惑にならないようヘッドフォンで、アファナシェフのシューベルトピアノソナタ第21番」を聴く。

ゆっくり、しらじらと夜が明けていく時間の流れと、アファナシェフのゆるゆるのテンポがうまくシンクロするのだ。

「わたしは亡命者だ。

わたしはつねに亡命者であり続けるのだ。

はじめはソビエトからの政治亡命者だった。

ここパリでは『美学の亡命者』であり『こころの亡命者』なのだ。」

                 NHK「漂白のピアニスト」より

自由を求めて西側に亡命はしてみたものの商業主義に毒された芸術への失望。

そして吉田兼好徒然草」の世界へ。

アファナシェフ

シューベルト晩年の作品には死のにおいが立ちこめている。

その音楽は生と死の間をさまよい、美しさと恐怖を併せ持つ。

『絶対的真実の間近にいる』という切迫した予感は、

音楽史上最も不気味な低音部のトリルによって宙吊りにされている。」

          シューベルトピアノソナタ第21番」について       

                             

1947年生まれ、今年には68歳になるはず、お互いもう死は近いのだ、アファナシェフさん。