高村薫を読む、「レディジョーカー」
レディ・ジョーカー〈上〉
(1997/12/01)
高村 薫
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高村薫さんの傑作ミステリー「レディジョーカー」がテレビドラマ化され第一回をみました、秀作です。
同原作は2004年に日活で渡哲也さんらにより一度映画化されています。
なかなかの力作ではありましたが、映画2時間30分という時間制約のなかで、とても原作を消化し切れない中途半端な作品となりました。
原作が良ければ良いだけ映画化が難しい、そういうジレンマは藤沢周平の「蝉しぐれ」の映画化の失敗にもありました。蝉しぐれもNHKで時間をかけた連続ドラマのほうがはるかに傑作です。
その意味でもたっぷり時間をかけた今回のテレビドラマ化には期待が高まります。
前回の「マークスの山」を再度視聴してあらためて原作に忠実であると思いました。(週刊誌の記者が女性に代わっていることを除けば)
高村タッチというのがあります。彼女独特の言葉のリズム、これは今までにない乾いた快感です。
「マークスの山」での捜査会議の一場面
「若いキャリアの署長がひとり、いつ会議を始めたものかという顔でしきりに腕時計を覗いているのをよそに、合田と森は最後に着席した。早速我妻ポルフィーリが『土産はあるんだろうな』と底意地の悪い横目をよこし、又三郎は森へ眼を飛ばして『せいぜい楽しましてもらうぜ』だった。すかさず幹部席の林が机を叩いて『そこ、静かに!』と眉をひそめ、隣で碑文谷の副本部長が《本庁の動物園》という顔をし、署長が『それでは始めます』と言った。 うまいですねえ。
ただ今回は、とくにテレビ放送ゆえのタブーにどう挑戦するか、できるか、脚色の妙味を楽しみにしています。被差別部落、在日朝鮮人、身障者、食品メーカー恐喝とテレビドラマでは避けたいテーマばかりです。ハードルは高いのです。日活映画の場合でも腰が引けていました。
それだけ原作は現代社会の闇を語りつくした凄まじい挑戦であったということです。高村薫おそるべしと世間を唸らせました。
第一回を見る限り原作の意図に忠実であろうとしています。その意気込みや覚悟が観るものにも伝わってきました。次回以降も楽しみです。
さて、高村薫さんという作家、「黄金を抱いて跳べ」「神の手」「わが手に拳銃を」「リヴィエラを撃て」「照柿」と女性作家らしからぬハードボイルド小説で話題になり、「マークスの山」で直木賞受賞、あっという間に大作家の仲間入りしました。
そして「レディジョーカー」、おそらく読者であれ批評家であれ今日までの高村作品のベストワンに挙げるでしょう。
難解になっていくのは「晴子情歌」からでしょうか。純文学への挑戦かもしれませんし、阪神淡路大地震で被災された影響かも知れません。しかし読み続ける読者からすると迷路に入ってしまった印象です。
日経新聞事件、非は新聞社側にあったのでしょうが「新リア王」の延々と続く仏教論にはさすがに新聞小説読者もうんざりしたのも事実です。「太陽を曳く馬」ではあの合田刑事が再登場し読者サイドは混乱の極みに置いてきぼりとなってしまいました。
高村薫という作家は天才型の作家でしょう。紡ぎだす物語は巫女の宣旨のようです。先生は文庫化するときに必ず書き直しをされますが必ずしも成功していません。書き下ろし時の荒々しさがそのまま残っているほうが傑作です。理性ではなく聞こえる声をそのまま書きなぐってほしいのです。
それが震災という災難に遭遇され、空想力の翼を失ってしまわれたのか、成功ゆえの放漫なのかはわかりません。
映画「奇跡の2000マイル(原題 TRACKS)」セミドキュメンタリーの秀作
アリススプリングス、オーストラリアの地図を開くとど真ん中にある小さな町。そこから砂漠を横断してインド洋まで歩いて女一人旅をしようという無謀な計画を実現した24歳のロビン・デヴィッドソンの実録をセミドキュメンタリーで撮った秀作。
1.なにより主演ミア・ワシコウスカ、体当たりの演技がいい。
ラクダを連れて砂漠をただただ歩く、演技というより過酷な状況の中でロビン・デヴィッドソンになりきっている。
2..カメラワークがいい。
オーストラリアの砂漠の美しさを余すところなく撮っているが、実際は大変な撮影であったろうと思われる。
3.監督、プロデューサーみんな本気。
原作 「TRACKS」を映画化しようとした時から関わる人たちがみんな本気、それこそ命がけで作ってるという気分
がビシビシ伝わってくる。
4.ロビン・デヴィッドソン本人の手記がシナリオになっているためリアリティがはんぱじゃあない。
野生のラクダが襲ってくる、素朴なアボリジニたちの協力、愛犬が大自然の中でよりによって誤って農薬を飲んで死んでしまうなど、とても作家の想像力では思いもよらない展開である。
ロビン・デヴィッドソンのこの困難な旅の成功には本人の努力もさることながら、ナショナル・ジオグラフィック誌の協力とその連載記事に励まされたことは大きい。
ロビンの美貌と強い意志、過酷な砂漠の冒険談にナショナル・ジオグラフィック読者は夢中になったのではないだろうか。
記録映画といってもいい名画である。
映画感想「裏切りのサーカス」
ル・カレのスパイ小説、『ナイト・マネジャー』がBBCでドラマ化されるらしい。
その前に、ル・カレの傑作映画を観るのも悪くない。
ひさしぶり、大人のための傑作ミステリー映画である。
原作はジョン・ルカレの「Tinker Tailor Soldier Spy」
読んだのはもう30年以上も昔のことである。
本作はわが国に紹介されたルカレの第二作目であったように記憶している。
東西冷戦のなか、スパイの非情さをリアルに描いた「寒い国から帰ってきたスパイ」でわが国でもベストセラーとなった。
またこの二作が大傑作でこのあとは少しレベルが下がったように思う、というより東西冷戦が氷解し、過酷なスパイ合戦にリアリティがなくなったという歴史がある。
まさに言葉どおりの「寒い国から帰ってきたスパイ」である。
よくもまあ40年もの間、脚本を暖めていたものである。
ジョン・ルカレが感激して出演までするのも無理はない。
映画は総合芸術というが、これほど製作にかかわった人たちの熱意を感じさせた作品は近年まれである。
製作中に亡くなったブリジット・オコナーへの追悼のクレジットが入っていて、オマージュの意味もあるのだろう。とにかく脚本がいい。
商業主義のハリウッドではこうは行くまい。
ただ原作を知らない若い人たちには、映画館で観るとよくわからないままあっという間に終わってしまう。
二度三度と見直したというレヴューを見るとそれはそうだろう、と思う。
名だたる俳優がもてる演技力のかぎりをつくして演じている。
ゲイリー・オールドマンのスマイリーははまり役、役者冥利につきるだろう。
ただメガネを変えるだけで時の流れを表現する。
無骨なスマイリーが感情的になるシーンは一ヶ所だけ
「単なる使い走りじゃあないか!」
原作ではプリドーが主人公か狂言回しになっていたように記憶していたが、映画では学校での生徒との関係が唐突で弱い。ただラスト銃撃のあとのあの涙はたまらない。
新訳はあまりにも評判が悪いので、古い原作を書庫で探すのだがどうしても見つからない、35年前となると。
監督のトーマス・アルフレッドソンはスウェーデン出身らしい名監督。
おそらく英国やアメリカでは引く手あまたであろうし、世界中の役者も出演を希望するだろう。
できれば007の新作に挑戦してほしい。
建築家リカルド・ボフィルについて(建築家シリーズ1)
1990年、わたしはフランスパリ、スペインバルセロナ、フランスモンペリエを旅行しました。
ただただ建築家リカルド・ボフィル(Ricardo Bofill)の設計の建造物を訪ね歩くという贅沢な旅でありました。
リカルド・ボフィル、現在ではあまり知られない建築家ですが、日本では銀座資生堂の赤いビルが有名です。
その原点は出世作となったバルセロナの集合住宅「ウォールデン7」、
ボフィルがサハラ砂漠を放浪していたときベトウィン族の衣装と砂丘の調和の美しさから発見した「赤」と言われています。
バルセロナ近郊の工場跡地にエントツや倉庫をそのままに赤い集合住宅を造り上げました。
東京銀座にボフィルの「赤」は資生堂会長福原さんのたっての頼みであったのかもしれません。
もちろんボフィルの代表作は映画「未来世紀ブラジル」のロケ地として有名なパリの集合住宅。
旅の終わりの圧巻は、街全体をギリシャローマ様式で造り替えた南フランスモンペリエの都市再開発の徹底ぶりでした。
ボフィルの重厚な設計スタイルは、軽く柔らかなデザインが主流の現代では少し時代遅れの感がありますが、一時代の寵児であったボフィルを懐かしむのもよいでしょう。
「水滸伝」19巻 完結編 なるほどだから面白い
講談本では梁山泊に最後まで生き残るはずの楊志が北方版では第五巻で早々に死んでしまった、どうして?
その後延々と続く楊令の成長物語はなぜ?
17巻から突然登場する女真族、どうして?
多くの人が水滸伝をいまいち楽しめない、けむたいのは、
主人公たちが梁山泊で全滅する悲劇の物語だからです。
映画「アラモ」が観終わってすっきりしないのと同じ理由。
北方さんははじめから梁山泊全滅の悲劇ではなく、
そのためには「水滸伝」19巻、「楊令伝」15巻、「岳飛伝」16巻、全50巻を読んで欲しい、
これなら読者は胸躍らせる、という恐るべきたくらみ。
だからラストのセリフ、
「武器を捨てよ。童貫元帥は、おまえを助命されると思う」
楊令「その童貫に、伝えろ。
この楊令は、鬼になる。魔人になる。
そうして、童貫の首を奪る。
この国を、踏み潰し、滅ぼす。
いつの日か、おまえの目の前にこの楊令が立っていると、童貫に伝えろ」と吠える。
史実に沿えば北宋は滅び、童貫は首を打たれる。
『バードマン』アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督
ブロードウェーの不思議のひとつに、
公演初日のニューヨークタイムスの批評次第で、ロングランあるいは一週間で打ち切りが決まる、という理不尽なルールがある。
何か月、何億の経費をかけて準備をしていようとダメはダメ。
この理不尽なルールにもの申したのがこの映画の会話、痛快である。
落ち目のハリウッド俳優リーガンはブロードウェーの舞台に再起をかけるが、プレビュー公演は失敗。バーでニューヨークタイムスの批評家タビサ・ディッキンソンに出会う。
リーガン「批評しているのか。
面白かった? 駄作か? ちゃんと観たんだろうな。
くそ批評を読ませろ。」とタビサのメモ書きを読む。
リーガン「未熟?ありきたりだ。無味乾燥?これもそう。
中身がないだと?もっと具体的に説明しろよ。
あんたはレッテルを貼ってるだけ、かなり手抜きだな。
あんたは怠けてる、怠けものだ。」と一輪挿しの花を手に取り
リーガン「これが何だかわかっているか?わからないよな。
レッテルを貼らないとちゃんと見えない。
頭に浮かぶ言葉を知識だと思ってる。」
タビサ「もうおしまい」
リーガン「君の文章には技術も構成も意図もない。
下らない意見を述べさらに下らない比較を追加、
君は批評を書くだけで、何ひとつその代償を払わない。
なんの危険もない、リスクはゼロ。
俺は役者だ、この芝居にすべてを懸けた。
よく聞けよ、
このいまわしい悪意に満ちあふれたクソみたいに下手な批評を突っ込むがいい
そのシワだらけのケツの穴に」
タビサ「あなたは役者じゃあない、ただの有名人よ。
芝居は打ち切り」
( 翻訳 稲田嵯裕理)
しかし・・・ 「無知がもたらす予期せぬ奇跡」が起きる